最近村上春樹の文章ばかり引用する気持ち悪い感じになっているが、続ける。
ものごとの正しいモーメントというものは、本来的に根本に疑いの念を含んでいるものではないだろうか。というか、本来正当なモーメントというものはあくまで素朴な自然な疑いに端を発したものであるはずだ。そのような疑いの中から「いちおうこういうことになっているけれど、実はこうではないか?」「いや、実はこうではないか?」という仮説が次々に生まれてきて、その様々な仮説の集積によって一つの重要な可変的モーメントが生じるのではないか。
しかしある時点でそのような仮説の一つ一つが固定化され定着されて本来の可変性を失い、誰にでもわかる留まったテーゼとなってしまうと、そこにはあの宿命的なスターリニズムが生じることになる。
――『やがて哀しき外国語』より
〇〇学の◇◇理論の研究などというものよりも、一人の人間として抱きうる健全で普遍的な知的好奇心みたいなものを育てていくことを優先させたい。それはずっと前から思っている。大学にいるのはそのための手段にすぎないし、〇〇科にいるのも大学に所属している以上どこかのデパートメントにいないといけないからにすぎない。と改めて思った。
であれば大学で論文を書く以外に知的好奇心を満たす手段を確保しておいたらいいんでないか。あるいは雑多に論文を書けばいいのではないか。と気づいた。