PDCA as DDDD

As the keyboard of my laptop is not fully working, I'm writing this entry in English.

Today I'd like to propose that we should call PDCA as DDDD. As you know, PDCA is a framework for business or research, which maintains Planning, Doing, Checking and Acting are the main components of a given project. It provides distinctions between acitivities or tasks of a given project and makes it clear where we are in the whole process, and what we should do next. Although I don't doubt about these effects of PDCA, I sometimes feel the concept of PDCA is confusing. This is because we cannot clearly distinguish between D (Doing) and other three components (Planning, Checking and Acting). Precisely, P, C, or A is also a kind of D, given that planning, checking or acting is also the activity which is done by our hands; for example, we don't plan the project only within our brains, but with paper and pencils. Thus it seems appropriate to understand that P, D, C and A are not qualitatively different but they are all a variant of D. My conclusion is we should call PDCA as DDDD.

アムラバト8強おめ

タイトルは全然関係ない。「〇〇学者」になる前に十全な知的好奇心を備えた人間でいたい、とか半年前くらいまで言ってた気がするのだが、今では全くそう思わない。どういうことか。①まず「〇〇学」なるものへの認識が変わった。「〇〇学」というのは、「領域」とか「分野」みたいな二次元平面的な比喩で例えられるような静態的な存在ではなくて、複雑な現実を切り取るための身体技法のようなものなのだと遅まきながら体感した。②現実は複雑すぎるので、特定の身体技法なしに立ち向かうとめまいがする。③したがって、現実を解釈したいのであれば〇〇学は必要である。というか、繰り返しになるが、それなしにやっていくのはむずかしい。むずかしいから仕方なく〇〇学というものができた。そんな程度だろう。裏を返せば特定の学問に寄りかからずに仕事ができる人(柳田國男とかをイメージしている)はどんだけ才気にみちみちてるんだという話である。ていうかモロッコ強いわ。ベルギー戦も勝つんじゃないかと密かに思ってたら本当にそうなってたまげた。スペインには50%くらいの確率で勝つと思ってた。まだまだアムラバトがみられて嬉しいですね。

ワールドカップでみたいイケおじ3選

サッカー好きの私が選ぶカタール・ワールドカップでみたいイケおじ3選

①イドリッサ・ガナ・ゲイェ(セネガル)

シュッとしていてあごひげがよく似合う。細マッチョ系イケおじ

②ソフィアン・アムラバト(モロッコ)

坊主頭+頬髭+くりくりの瞳でゆるキャラ的可愛さがある。ゆるキャラ系イケおじ

③イルカイ・ギュンドアン(ドイツ)

ドイツの三船敏郎。正統派イケおじ

奇しくも全員中盤の選手で、随所に気の利くプレーを連発する感じが似ている。こういうところがイケおじたる所以であろう

長明リベンジ

前記事で触れた山科の鴨長明方丈跡に今度こそ行ってみた。再び外環道を山科から南下していった。

道中。六地蔵付近

軽く登山する必要がある

往時を偲ばせるものはこの石碑のみ

正直に言ってあまり感興をもよおされなかった。帰りに寄った醍醐のラーメン横綱のほうが記憶が鮮明である。

ラーメン横綱は京都のローカルチェーン・ラーメン店である。グルメな人の口には合わないだろうが、私はなんだかんだ週に1回くらいは行っているとおもう。ネギが入れ放題なところに魅力を感じている。

私はネギが大好きなのである。この日も特製容器で供されたネギの山の半分ほどをラーメンに投入した。

店内を出ると日が暮れていた。

外環から東海道に入り蹴上を越える。自転車で三条通を下っていくのは快感である。九条山の分水嶺から都ホテル、粟田口、神宮道を過ぎ、東山三条まで約2kmの道のりを一回もペダルを漕がずに走りきった。

それにしても徐々に観光客が戻ってきた。三条付近にもツアー客が多い。

などと考えつつジムに寄り帰宅。

たのしい山科さんぽ

鴨長明の墓というのが六地蔵あたりにあるらしく、今日行ってみようとしたのだが、スマホを忘れたので所在地がわからず、そこらへんの人に訊いてまで行きたいという情熱もなく、近くまで行ったにもかかわらず引き返してくることになった。四五年前まではこういうときはコンビニに入って道路地図を立ち読みして方向を把握していたのだが、最近はスマホとカーナビの普及でコンビニにも地図が置いていない。

ともかくそういう経緯で京都外環状線の山科から六地蔵までを自転車で走破する格好になったのだが、いろいろな発見がありそれはそれで楽しいものだった。

  1. 地下鉄東西線の山科以南の駅名をそらで言えるようになった。山科、東野、椥辻、小野、醍醐、石田、六地蔵。
  2. なぜ覚えられたかというと、駅前が栄えている駅と比較的閑散としている駅が交互に現れるパターンを発見したからである。山科(ターミナル)、椥辻(メガドンキ)、醍醐(駅直結ショッピングセンター)、六地蔵(ターミナル)がでかいほう。
  3. 私的外環見どころ三選。
    1. 小野駅を過ぎたあたりで左手に見える醍醐上ノ山団地。周りになにもないので光り輝いてみえる。
    2. 醍醐駅のショッピングセンター&団地コンプレックス。醍醐駅の良さについては今年3月か4月にも書いた。日用品と衣料を一緒に売ってるような、比較的小さめのショッピングセンターみたいなのものは京都のまちなかには全然ないのでつい入ってしまう。そして寝間着を買った。
    3. 石田駅通過後に左手に見える醍醐石田団地第1棟。この建物が目に入った瞬間衝撃をおぼえた。めちゃくちゃ横に長かったからだ。ぜひグーグルマップなどで見てみてほしい。喩えが失礼すぎるが、東京拘置所を連想させる。

見どころが団地だけやないか、といわれそうだがほんとうに山科は団地が多い。特に醍醐・石田は団地の中に駅があるようなものである。

帰りは外環の一本東の奈良街道を通った。

ポストT型フォード時代の空海と知的生産の技術

最近梅棹忠夫の『知的生産の技術』を読み返していて私が研究的ななにかをしてみたいと思うようになったきっかけの一つはコレだったと思い出した。私は中1でこの本を読み、当然一知半解ながらそこで紹介されていた知的生産ツールとか知的生産チップスのようなものにいたく心惹かれた。「こざね法」とか「本は2度読め」とか「文書を作るときは年号から入れろ」とか未だに覚えている。というのはその当時から実践しているからだからだが、ともかくそのときの私はこの本をやけに楽しんでいた。

つまり「出自」をあえていえば「研究ツールオタク」ということになる。こういう人はほかにいるんだろうか。よく生物系の研究者とかだと小さい頃から昆虫が好きで…。みたいなケースがあると思う。しかし私はそんな感じで特定の研究対象に対して熱があるわけではなかった。あるいはなにか特定の問いにこだわりがあるわけでもなかった。また当然、その問いに答えるための理論的な方法論のようなものに関心があるわけでもなかった。私の関心は、(対象は何でもいいので)ノートを取る、記録をつける、とったデータを整理する、という身体動作そのものにあり、またその際に用いられる道具にあり、そういった道具をどう使うかというノウハウにあった。

なにかしらの道具を使うことそのものが好き、という感覚はわりと他の職種とか趣味にも共通していると思う。たとえば陶芸家は、なにか特定の什器だけを作りたいわけではなくて、ろくろを回してるのが好きなのだろう。お茶碗だけ量産していたい陶芸家なんていないんじゃないか。そうじゃなくて手が土に触れ、土がだんだんと成形されていくその過程に身体的にコミットすることそのものがやり甲斐なんじゃないか。

だがその後「弘法筆を選ばず」的思想に走ってしまい、ツールへの関心を「禁欲」していた時期があった。知らねえよという感じだが。。。ペンもノートも持たずラップトップ一台で生活に必要なすべての動作を済ませるのがかっこいいと思っていた時期があった。

しかしそのようなよくわからないストイックさみたいなものは、文字の読み書きを生業にしようとしている人間には端的にいって有害であると悟った。知識は道具との相互作用のなかから生まれてくるからだ。筆はどんどん試し、選んだほうがいい。ちなみにツールはまだまだ試行錯誤中なので何がいいとかはあまりいえない。

余談だがそもそも弘法大師が本当に道具に無頓着だったかも怪しい。以前読んだ伊坂幸太郎の小説のなかに「弘法は筆を選べなかったのよ」というセリフがあった。前後の文脈は忘れたがそれだけ覚えている。空海がT型フォード時代やIT革命以後に生きていたら筆記用具やコンピュータを選ぶのに時間をかけるかもしれない。

坂口恭平、ありがたいなあ

昼過ぎ、急に塩辛いピザが食べたくなったので烏丸今出川のサイゼリヤに行ってみた。いつもは塩分過多にしか感じないアンチョビのピザがとてもおいしかった。烏丸今出川の店にははじめて入ったが意外と店内が広い。

帰宅後ふと坂口恭平のnoteを開いたら読むのが止まらなくなってしまった。「中学生のためのテストの段取り講座」「継続するコツ」「生きのびるための事務」は全部読んでしまった。とくに「中学生のためのテストの段取り講座」には今の私に足りないとうすうす感じていたことが具体的に書かれているように感じた。

段取りとは自分で自分を助ける方法なんです。人から与えられたスケジュールは段取りとは言いません。段取りとは常に、自分で自分の行動の予定を前もって決めることなんです。学校では失敗してもいいですが、仕事では失敗するわけにはいきません。だから前もっての段取りがとても重要になるんです。 (出典

自分で自分を救えるようになりましょう。誰にも頼らずにまずは自分でやるんです。まずは自分でやる、そして、できなかった時だけ、周囲にいる友人に頼る。そういう手順で、助けることができたら、もうあなたは一人前の大人です。自分で自分を助けなくちゃいけないからといって、できないのに、誰にも言わずに一人で黙々助けようとするのも大人ではありません。それも子供です。子供はすぐにできないと拗ねます。できないことを受け入れることができません。だから、素直に、どうすればできるようになるのかと人に聞くことができません。すぐに拗ねて、拗ねてしばらく時間が経ってから、少しずつ、素直になっていきます。(出典) 

自分で自分を救えるようになったら、今度は人を助けるんです。 (出典) 

人間はムラのある生き物です。生き物であることがムラです。波です。調子がいい時もあれば、悪い時もある。天気の日もあれば雨の日もある。実はどちらも重要で、どちらもあることで僕たちは生きていくことができます。だから波のまんまに生きていくことも大事です。波は波で意味がある。しかし、その波のまま、ムラのままに動いていると、決めたことを終わらせることはできません。でもそれはそれでいいんです。そういう人生もありです。僕自身も自分の心の波、体の波に自由にやらせて生きていくことも大好きです。しかし、確かにそのやり方だと何事も終わらないし、完成はしません。それでいいんだと思った事柄についてはそのスタイルでやってます。 (出典) 

急に寒くなった

そろそろブログを再開しようかと思う。やはり精神を安定させるためのセラピーとして効果があると感じる。

最近身体のあちこちが硬くなりやすい。特に上半身。頭皮、首筋、肩甲骨周り、胸郭、背筋、脇腹、腰、すべてが朝起きるとガチガチになっている。

これが何を意味しているのかいろいろと考えていた。身体年齢が老化しているのか、緊張しやすい私の性格によるものか、論文のプレッシャーか、将来への不安か…。

しかし、単に寒くなったから、というのが一番穏当な解釈だろう。今週、驚くほど急に寒くなった。一週間前にはまだ冷房をつけていたような気がするのだが、今日はもう暖房が必要な気温にまで下がっている。ここまで急激に気温が変わったら、身体にも変化が生じるのはありえないことではない、というかごく自然なことだろう。

羽根布団を引っ張り出してこよう。

最近の教訓

①信頼関係に勝るものなし

②人は怖くない 内気さに克つべし

③いろいろな人の生き方を学ぼう

④経験から学ぼう

⑤研究は人生のほんの一部

⑥ペーペーが研究で打ち出せる先行研究との差分などたかが知れている 何をやるかも大事だがどうやるかも大事 計画と相談

⑦キャリア初期では研究はなにか新しいことを言う手段というより生き方(人との付き合い方)を学ぶ訓練としての色彩が強い

⑧居場所は自力でつくれる…はず