ポストT型フォード時代の空海と知的生産の技術

最近梅棹忠夫の『知的生産の技術』を読み返していて私が研究的ななにかをしてみたいと思うようになったきっかけの一つはコレだったと思い出した。私は中1でこの本を読み、当然一知半解ながらそこで紹介されていた知的生産ツールとか知的生産チップスのようなものにいたく心惹かれた。「こざね法」とか「本は2度読め」とか「文書を作るときは年号から入れろ」とか未だに覚えている。というのはその当時から実践しているからだからだが、ともかくそのときの私はこの本をやけに楽しんでいた。

つまり「出自」をあえていえば「研究ツールオタク」ということになる。こういう人はほかにいるんだろうか。よく生物系の研究者とかだと小さい頃から昆虫が好きで…。みたいなケースがあると思う。しかし私はそんな感じで特定の研究対象に対して熱があるわけではなかった。あるいはなにか特定の問いにこだわりがあるわけでもなかった。また当然、その問いに答えるための理論的な方法論のようなものに関心があるわけでもなかった。私の関心は、(対象は何でもいいので)ノートを取る、記録をつける、とったデータを整理する、という身体動作そのものにあり、またその際に用いられる道具にあり、そういった道具をどう使うかというノウハウにあった。

なにかしらの道具を使うことそのものが好き、という感覚はわりと他の職種とか趣味にも共通していると思う。たとえば陶芸家は、なにか特定の什器だけを作りたいわけではなくて、ろくろを回してるのが好きなのだろう。お茶碗だけ量産していたい陶芸家なんていないんじゃないか。そうじゃなくて手が土に触れ、土がだんだんと成形されていくその過程に身体的にコミットすることそのものがやり甲斐なんじゃないか。

だがその後「弘法筆を選ばず」的思想に走ってしまい、ツールへの関心を「禁欲」していた時期があった。知らねえよという感じだが。。。ペンもノートも持たずラップトップ一台で生活に必要なすべての動作を済ませるのがかっこいいと思っていた時期があった。

しかしそのようなよくわからないストイックさみたいなものは、文字の読み書きを生業にしようとしている人間には端的にいって有害であると悟った。知識は道具との相互作用のなかから生まれてくるからだ。筆はどんどん試し、選んだほうがいい。ちなみにツールはまだまだ試行錯誤中なので何がいいとかはあまりいえない。

余談だがそもそも弘法大師が本当に道具に無頓着だったかも怪しい。以前読んだ伊坂幸太郎の小説のなかに「弘法は筆を選べなかったのよ」というセリフがあった。前後の文脈は忘れたがそれだけ覚えている。空海がT型フォード時代やIT革命以後に生きていたら筆記用具やコンピュータを選ぶのに時間をかけるかもしれない。