佐藤郁哉『社会調査の考え方』を読んでるのだが、視界が一気にひらけた感がある。同じような本は学部時代に半ば儀礼的にいくつか読んできたが、マジで知りたい、困ってる、と思ってるときに読むと吸収効率がぜんぜん違う。
社◯学における問いの立て方のポイントみたいなのがようやく、おぼろげながら見えてきたかもしれぬ。
やはり、なんらかの「理論」と呼ばれているものとの緊張関係のもとで問いを想定したほうがいいようだ。問いを選ぶ段階から戦略的になる必要があるということだ。もちろんデータ・事例から着想を得るのは大いにありなのだが、最終的には〇〇論みたいなものとの関係を意識したほうがいいようだ。
極端な見解として
理屈や能書きや計算は、あるいは何とか主義やなんとか理論なんてものは、 だいたいにおいて自分の目でものを見ることができない人間のためのものだよ ――『ねじまき鳥クロニクル』第2部17章
というのもある。大学生活の解毒剤として隠し持っておきたいフレーズではあるが、念頭に置かれているのはマルクス主義とかだろうから、いわゆる中範囲の理論の検証/発展/批判/構築をこころみる現代の社◯学にはちょっと当てはまりづらいところもある。
では「理論」ってなんやねんという話だが、佐藤氏はちゃんと「理論」が何を意味するのか、というレベルから書いている。詳しくは図7.2をみてほしい。あとは「問い」という概念の多様性についても上巻110-112ページで論じられている。
『知的生産の技術』しかり『勉強の哲学』しかり、こういう方法論系の本から受け取るメッセージはコンスタティブなものというよりパフォーマティブなものな気がする。本の内容はともかく、ここまでメタ認知を発達させて、自分がやっていることを体系的に記述できるんだ、という。
まあ、何らかの形で「理論」とつながるようなテーマ設定が必要となると、知りたいことも必然的に絞られくるし、学問で扱える範囲というのも「理論」のあり方に依存してしまうので、何でもできるというわけではない。そうだとしたらなんだか窮屈なものですな〜。
理論。膝を抱えた小さな子どもが詰められたトランクのようなものを想像してしまう。是枝裕和『誰も知らない』の冒頭に出てくるような。あるいは食品でいっぱいのレジ袋。ネギなんかが収まりきらずに飛び出したりして。
そういう窮屈さから解き放たれたいという感覚ができてくれば、それが着想の源になるやもしれぬ。
それにしても学問というのは奇怪だ。