思弁和歌山高等学校
2021年11月30日火曜日。
私がM3生活に突入する決断をしたと告げたとき、ある先人が「手本になる論文を探したらいい、本ではなく」と真っ先に返してくれた。このコメントを時々思い出す
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スキルとか能力という言葉が嫌い。なにか新しいことができるようになったとしても、それは自分という器のようなものにスキルなる実体が蓄積されるんじゃなくて、何かしらの経験によってこれまで見えなかった風景が見えてきて、問題を扱いやすい形式に適切に変換できるようになるというイメージのほうが近い。
というか自己なるものをなにか容器のようなものと考えるのがあまり好きではない。それは自分のほうは不変で経験とか能力だけが蓄積されていくという発想を導いてしまう。自己の「内面」に「蓄積」ないし「所有」されたものがあるとは、私の実感ではちょっと考えづらい。
自己、というか正確には対自としての自己、というのはあくまで瞬間瞬間の、それぞれ別様の知覚と行為を事後的に総称したものだとおもう。
いや、しかしそうだとしても知覚と行為にある程度の連続性があるじゃないか、といわれそうだが、私はそれを否定しない。しかしその連続性を担保する根拠は、なんとなく考えてしまうように自己なるものが不動(絶対的な私)だからというわけではないと思う。そうではなくて、私を取り巻いている知覚と行為の場とかコンテクストじたいが比較的持続的だから、あるいは私の身体の物質的性質が比較的持続的だからだと思う。つまり、確固たる私、のような、「内面の安定性」みたいなものを想定しなくても知覚と行為にある程度の連続性があることは説明できるんじゃねえの。
いま言ったことを時間に着目して言い換えると、主観的時間感覚では現在しかない、ということだともいえるのだが、一方で24時間365日の社会の時間というのがあり、これが自己の一個性みたいなものを想起させてしまう原因の一つになっているように思われる。
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京都シネマでワイズマンの「ボストン市庁舎」みてきた。4時間半。なげえ。ただやはりおもしろかった。シティ・ホールの活動をくまなく追うことで、ボストンという都市の輪郭が浮かび上がってきたような気がした。
生態心理学では「社会制度のアフォーダンスは直接知覚できるのか」という議論(郵便ポストのアフォーダンス問題)があるらしいが、この映画は、都市、地方自治、民主主義といった社会構造や社会制度が、具体的で個別的な相互行為、空間、モノを通じて知覚されうる可能性を示唆しているように思える。
ワイズマン作品は確実に心を触発してくる。
悩める青年モード
2021年11月29日月曜日。なんと7時30分に起床。えらすぎるのでこの時点でもう今日は何もしなくていいくらいだったがたくさん本を読んで文章もある程度書いてゼミでまあまあ意味ありげな発言もした。すごいね〜えらいね〜最高だね〜
で、先ほど、このブログの過去の記事を読み返そうと思ったら恥ずかしすぎてできなかった。でもいいのだ、私は書き続けるぞ。書いている最中に気持ちよさを味わえればそれ以上の意味は不要なのじゃ。
たまに不特定多数の人々から称賛を浴びたいと強く思ってしまうことがある。これは、現状の自分に不満を感じていて自分で自分を認められなくなっているサインなのだと思う。自分で自分を認められないのは、なにか不安を抱いているのだが現状ではそれに対処できていないということでしょう。
目下不安なのは、いま考えていることにある程度のまとまりをもたせることができるかどうかということと、学内外で人的ネットワークが広げられるのかという2点なのだが、この2つは関連していると思っている。適切な相手に話せば考えが整理されるし、何も考えていなければ何も話せないから。
と書いてみて、「何も考えていなければ何も話せない」というのは真実ではないような気もしてきた。なぜなら何も考えていなくても人と会話することはできるから。大事なのは考えることというより、人に話せるように言語を操る訓練をしておくことなのではないか。それはすなわち言語(というか文章)をある程度用意しておくことであり、人に話す前に自分で自分に語りかけるという作業でもある。
冷静になるためにジョニ・ミッチェルを流すことにする。
東大路に架ける橋
2021年11月28日日曜日。きょうは新潟の直江津でゆうちょ銀行を探している夢をみた。
めずらしく朝9時前に起きたのだが、朝8時台に起きてよく晴れた空をみることの多幸感はすごい。ものすごく貴重な宝石を手に入れたような気分。しかし、味わうためにかなりハードルの高い幸福。
完璧主義より終わらせろというけど、終わらせるためにはまず何かに取りかからねばならぬ。本を取り出したり、原稿ファイルを開いたりした時点で偉いが、そもそもそういった動作が億劫。
特に、リュックサックに入れて持ってきた本を取り出すことが億劫でできないことがままある。家に帰ってきて、リュックを床においたら最後もう中身が取り出せなくなってしまう。身をかがめて中身を取り出すことが面倒だから。
たぶん、リュックは壁のフックとかに引っ掛けておくようにしたらいいのだと思う。そうしたら中身が取り出しやすいし、あまり中身が重い場合は引っ掛けるときに中身を取り出さなきゃとなるので取り出せるはず。
京大総合博物館で開催中の増田友也展に行ってきた。期待を裏切らない充実ぶり。博論を古代の儀礼空間で書いたり、晩年はハイデッガーの存在論に傾倒したり、増田友也という人は建築物だけじゃなくて人間にも興味があり、環境と人間の相関を考え続けたようだ。素敵やん。
よく前を通る下鴨本通の博多ラーメンの一軒南側の家が増田作品だと知って驚いた。あと中央食堂の入っている工学部8号館もそうらしい。ちなみに増田氏の代表作のひとつである京大体育館は、当初は本部キャンパスの方から陸橋でつなげる予定だったと聞いてすごく残念に思った。陸橋があればあのなかなか変わらない信号を待たずにすむから。いまからでも遅くないから陸橋、架けてくれんかの。
久々の冗談シリーズ
その1
隠居「熊さん、その服似合ってるね」
熊「へえ、ありがとうございます、ブラックフライデーだったので」
隠居「え?」
熊「ブラックフライデー」
隠居「なんですか?」
熊「セールですよ」
隠居「はあ、語感まで安っぽいな」
その2
隠居「この間、信号を渡っていたら不動産屋の車が左折しようとしてきて、ちゃんと止まらずに横断歩道のほうににじり寄ってきたんだよ」
熊「はあ、そういう車多いですよね」
隠居「交差点でピタっと止まらんのだよ、車体に『ピタットハウス』って書いてあったのに」
いい漢字、いい漢字、超超超超いい漢字
2021年11月25日木曜日。晴れていた。
最近睡眠時間6時間くらいで目が覚めてしまう。そして首こりがまたひどい。ストレッチしてみるぜ。首は筋トレマシンでアプローチできないのが残念。
京都ヨドバシの上で「今年の漢字」の募集をしていた。このご時世に手書きで(苦笑)。こんなに意味不明なわりに過剰に持ち上げられているイベントがほかにあるだろうか(苦笑)
小学生みたいで恐縮だが、せっかくなので私の下の名前の漢字を書いて入れてしまった。ただ、そこそこ珍しい漢字なので、この漢字が名前に使われている人全員がこの漢字を書いて入れたとしても1位には絶対になれないだろう。
漢字つながりで台湾のシティポップ。といってもこれくらいしか知らないんだけどこのアルバムはマジで好き。強いていえば最後の「壊習慣」が特に好き。「ホワイシークワン」という言葉が連呼されるのだがこれが「壊習慣」だということだけは分かる(笑)
freckleは日本語だとそばかすだが、「そばかす」をグループ名にするセンスがシティポップ的すぎて笑ってしまう。そばかすつながりでもう一曲いっておきましょう。
新たな文体の開拓
2021年11月24日水曜日。晴れていたけど洗濯物を洗濯機から取り出すのを忘れていたので2時間くらい貴重な晴れの時間をロスしましたあ〜。なんてこったあ〜。
今日は映画研究者の自宅でおでんをご馳走になったんですよお〜。嬉しいですねえ〜。前日から仕込んでおいてくれたらしく大根に味がしみていて最高でしたあ〜。ドゥルーズの解説書も貸してくれましたあ〜。読む〜ぞ。
ところでChicというファンクバンドがあるんですけど、70年代のChicのサウンドが私は最高に好きなんですよお〜。バーナード・エドワーズのベースラインが病みつきになるんですよお〜。好きな曲をまとめてみたんですよお〜。
Happy Manという曲のベースリフは最高っすねえ〜。皆さんリピートしましょうねえ〜。
大学で映画を観る
2021年11月23日火曜日。快晴ではないが雨も降らなかった。この街では雨が降らないだけで僥倖。
今日はこういうイベントに行ってきた。
本プロジェクトメンバーのワダ・マルシアーノ・ミツヨ先生が中心となって、11/23(祝)に京都大学で〈熊谷博子監督作品上映会&講演会〉を開催します。上映作品は、『映画をつくる女性たち』。多くの女性映画人の言葉に耳を傾けられる貴重な機会ですので、お近くの方はぜひご覧ください! pic.twitter.com/kQVkGifFV2
— 「日本映画における女性パイオニア」プロジェクト (@women_pioneers) November 21, 2021
『映画をつくる女性たち』というのは1998年の作品で、その時点で活動していた日本の女性の映画監督のインタビューをまとめたもの。ドキュメンタリーですね。出てきたのは29人だがインタビュー自体はもっとやってるらしい。これだけ多くのインタビュイーにインタビューするのは、ジャーナリスト出身の熊谷監督だからこそできた仕事な気がする。ジェンダーの研究とかしている人の問題意識とは若干違うのかなと思うところもないわけではなかったが、記録映像としての価値の高さはいうまでもない。
とくに黎明期の監督たちは、ヤクザっぽい人に脅されたことがあるとか、ロケ地の宿泊中に身の危険を感じたことがあるとか、聞いているだけで震え上がるようなエピソードをもっていて、そのような状況でも作品に取り組み続けたのはマジですごい。
トークセッションで指摘があったが、スマホの登場で映像を撮ることに対する技術的ハードルみたいなのはゼロに近くなって、一人で撮れるようになっている。そして生活のなかに映像が氾濫するようになっている。つまり人間と映像との関係そのものが変わっているし、映画の位置づけみたいなのも変わっていると思う。映画とか映像について考える際にはやっぱりこういう社会変化の底流みたいなものを考慮に入れたほうがいいのではないかと思った。
起きることについての考察
2021年11月22日月曜日。しとしと雨が降っている。
人間に主体性というか自発的決断のようなものが最も求められるのは、朝布団から出るときだと思う。一回起きてしまえばあとは半ば勝手に身体が動いていくが、まず起きるのが大変だ。
これは思うに、起きることのアフォーダンスを認識することが困難だからではないか。横になっている状態で作動するアフォーダンスというのがあまりない気がする。そもそもが意識的行動が行われない状態なわけだし。
ただ、例えばエアコンのタイマーを設定しておいて、起き上がるときに部屋が暖まっているようにすれば起きやすいんじゃないかということは考えられる。しかし温度だけでは起きることのアフォーダンスたり得るかは微妙。それは経験的にわかっている。きょうも部屋が暖かくなったと感じてから45分ほど布団のなかにおりましたので。
ではどうするか? 今のところ2つの方法が思いつく。
まずはモノの配置を変えることによってアフォーダンスを認識しやすくするという方法。つまり、単純だが、布団のそばになにかつかまれそうなものを置いておけば起き上がりやすくなるのではという発想。どうしても体調が悪いときとか気分が落ち込んでいるときなどは物的配置によるアフォーダンスの力に頼ってもいいかもしれぬ。
もうひとつは綾屋紗月のいう身体の内側のアフォーダンスとでも呼べるものを意識するという方法。尾籠な話で恐縮だが、寝ているときに人間がとるほぼ唯一の行動としてトイレにいくというものがある。寝ている状態から起き上がるのにはかなりの体力的出力を必要とするわけだが、トイレに行きたくなったら起き上がれてしまう。これは尿意が我々を突き動かしているからだ。この「トイレにいく」という動作がヒントになる。
要するに、朝起きるときに尿意に近いものを感じ取れれば、すんなりと起きられるのではないか。「起きなきゃ」という感覚が身体の内側から生じればすんなり起きられるのではないだろうか!?
私見では、起きることそのものに内在する楽しさとか心地よさのようなものを味わうことができれば、「起きなきゃ」という感覚を得ることができるように思う。「起きることを味わう」というか、そういう境地。
そもそも「朝起きたい」というのは生理的欲求ではないのかな?「起きることの欲望」みたいなのは考えられないんだろうか。睡眠欲があるなら起床欲もあっていいのでは。
ともかく、まずは睡眠から起床への切り替わりの場面で身体感覚にどのような変化が起きているのか感じ取り、楽しさとか心地よさを感じる契機を見出すことが必要だろう。頭が冴えたな、というような感覚があったりすると嬉しいけど。明日起きるときはちょっと意識してみたい。
シカゴの子守唄
2021年11月21日日曜日。最近晴れが続いていて嬉しいね。
70年代ソウルがかなり頻繁に流れる環境で育ったので、私にとってEW&Fとかスティービー・ワンダーは子守唄のようなものなのだが、昨日からはこの曲がふたたびイヤーワームになっている。サビのコーラスがものすごい陶酔感。
とりとめナシゴレン
2021年11月20日土曜日。よく晴れてました。
ここのところ服が安売りされているっぽい。いま調べたらユニクロのオンラインストアが丈長めのボトムスを出しているようなので試してみようかしらん。ほぼ半額になってるし。ウェストのわりに脚が長すぎて巷で売っているボトムスがぜんぜん合わないのだが、ユニクロで買えるならかなり安心できる。
ひとりで落ち着きたいときにいいアルバムだなと思ってたら、最後の曲に謎の食事シーンみたいなの入ってるんですが…。
広島で激写したすじざんまい社長の写真でお別れしましょう。
ドンクのトング
2021年11月19日金曜日。いい季節になってきましたね
自転車を停めるためだけに高島屋に行ったのだがここ異常に駐輪場サービスがいいですよね。わざわざ係員を常駐させてるし、こんな鮮やかなオレンジ色の駐輪券までくれるし。
この駐輪場はどれだけ安い商品でも高島屋で買い物をしさえすればタダになる。今日は200円かかるところを、ドンクで195円のベーグルを買ったため5円浮かせることに成功した。ちなみにあまりおいしくなかった
せっかくなので屋上にのぼってみたところ、八坂の塔が見えた。世界の秘密をまた一つ知ってしまったぜ
真ん中を拡大してくれ |
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最近あまり読めていなかった鳥居真道ブログをまとめて読んだ(至福の時間ならざるや)が、この記事の有料部分で
好きなものを嫌いになろうとしたり、嫌いなものを好きになろうとしたり、やっぱり好きなものを好きだと言っても良いんだ、と考え直したりする経験
が大事、みたいな趣旨のことを書いていて、このフレーズに出会えてよかったと思った。「やっぱり好きなものを好きだと言っても良いんだ」という感覚こそがまさに最近の私を包み込んでいるものな気がする。
新聞も学術誌も基本斜め読みの私だが、鳥居真道ブログは隅から隅まで読んでいる。内容もさることながら、ものを書くことそのものへの執着のようなものがびしびしと伝わってくるのが最高。こういうヴァイブスを持った書き手に出会えるのは僥倖。
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たまたま前を通りかかって知ったのだが、明日、堀川中立売らへんに大垣書店できるらしい!ワオ!イエ~イ!ウェ~イ!
幻聴の天王洲アイル
2021年11月17日水曜日。進捗いまいち、雑用たまりがち、気分晴れないモードにまた入ってしまった感があるぜ。とりあえず明日ジム行こう。
ところでこの曲の歌い出しが「天王洲アイル」に聴こえて仕方ないのだが…。
汽車で来たらよかった
2021年11月16日火曜日。
ロームシアターでお年寄りに囲まれながら市民寄席なるものを観る。なかなかおもしろい。落語は映画と違って物音を気にせずに座ってられるから気楽だ。
笑福亭伯枝の花筏、桂雀三郎の胴乱の幸助、ようござんした。胴乱の幸助は浄瑠璃の稽古のシーンとか京都の地名とかナチュラルに出てくるのでザ・上方落語という感じ。上方落語をちゃんと聴いたのははじめてだったのだが最初がこれなのは結構幸運だったかもしれない。
ただ江戸言葉が恋しい気持ちもあるので帰省したら末広亭にでも行ってみようかと思った。講談も聴いてみたいので講談がかかる回がいいなあ。花筏で途中、昔の時代背景を説明するために口調が若干講談っぽくなるところがあったんだけどあのドライブ感はいいなと思った。
本日の音楽
先日の旅先では主にハイエイタス・カイヨーテの新作を聴いていた。
帰りの夜行バスで寝られるか不安だったのだが、このアルバムを再生した途端に寝落ちしていた。スティーリー・ダンに子守唄としてのポテンシャルがあることが判明した。私はGlamour Professionのイントロが大好き
ドライブ・マイ・ゴーカート
2021年11月15日月曜日。題名は関係ない。
私の場合、自分がやっていることが〇〇学なのか、みたいなことは本当に意識する必要がないし、したらとたんにつまらなくなる。〇〇学などという概念は、大学の学内組織の境界を便宜的にそう呼んでいるにすぎないのではないか。
ただ、自分のやっていることを他人に伝えやすくするために、事後的に自分のやっていることを〇〇学とか〇〇学の語彙で「読み替える」という作業は必要になってくると思われる。
あと何回か書いているが、「研究」という言葉も嫌い。「研究」は自分の外側にあるものではないし対象化されるべきものではないと思っているので。研究とか〇〇学を外在化するのではなく生きている私の経験のうちに溶かし込んでしまうようなイメージをもっている。生即研究、研究即生というか。こう考えると、主観的には自分の人生を生きているだけで、勝手に「研究」(と呼ばれるもの)が進展するということになる。
上に書いたことを関連付けていうと、自分の感覚に紐付いた自分の言葉と、〇〇学の言葉をすり合わせていく作業と言ってもいいかもしれない。そこでぴったり当てはまらない箇所が出てきたときそれがオリジナリティと呼ばれるものである可能性がある、ということではないだろうか。
我が身ひとつのあき竹城
2021年11月14日日曜日、広島2日目。
まず向かったのは天満屋の7階にある丸善広島店。旅先で本屋に入る、これ幸いならずや。広くていい。天井が低いのだがそれがかえって集中を高めてくれる感じがある。綾屋紗月・熊谷晋一郎『発達障害当事者研究』を購入。
この本は医学書院の「シリーズケアをひらく」のうちの一巻。周りの本棚も見回して、ここではじめて「シリーズケアをひらく」が名著を連発していることに気づいた。ケアとか身体に興味がある人にとっては宝の山のように見えるのではないか。とりあえず『リハビリの夜』『ケアとしての語り』『見えないものと見えるもの』あたりは今すぐにでも読みたい。
その後広島城経由で基町団地へゆく。天気がいい。すぐに雨が降るあの奇妙な街とは安心感と開放感が桁違い。
このあたりで昨日詠んだ短歌を復唱していたところ、「我が身ひとつのあき竹城」というフレーズを思いついてひとり興に入ってしまった。せっかくなので一句。
城の影映す水面のしづけさや我が身ひとつのあき竹城
ストップ・メイキング・センス。
基町団地はべらぼうにでかい。建物的にはベランダの囲いが丸みを帯びているのが印象的で他の団地と一線を画しているような感じがした。やはり移民系の人が多いと思う。
昼食で横川まで出るために太田川を渡ったところフォトジェニックな風景に出会えた。広島は水の街。
屹立する団地 |
この構図、ちょっと浮世絵っぽくないですか |
鉄道橋 |
その後、一度乗ってみたかったアストラムラインで市北部の牛田まで行って、見立山というちょっとした山に登ってみた。市内を一望できると聞いたので。
こんな感じでした。いいね |
牛田駅の高架から外を眺めているときデジャヴに襲われた。似ていると思ったのは台北郊外の北投温泉らへん。無数の川が山を削った結果できた扇状地であること、山の裾ギリギリまで高層住宅(広島の場合は団地)が迫っていることなどが共通点であるように思う。
中心部に戻りそごうに入った。小さい頃経営破綻のニュースを延々とやっていたのでいまだに続いているのが驚き。実際関東以外で残っているのは広島店だけらしい。とりあえずそごうを見かけると入りたくなる。喫茶店でパフェを食べながら『発達障害当事者研究』を半分くらい読んだ。
フィリピンパブと戦時建築
2021年11月13日土曜日。広島に観光に来ている。が、今日は広島見物もそこそこに、快速で30分ちょっとの距離にある山口県の岩国に向かった。「岩国」という名前のゴツゴツ感(それは米軍基地の存在によって増幅されている)が妙に心に引っかかるところがあり、前から来てみたかったのだ。
岩国での発見をまとめておこう。
米軍
岩国駅につくとさっそく米軍の軍人・軍属と思しき人々の姿があった。というか、岩国駅周辺の子ども連れはだいたい米軍関係者であった。あと基地の街あるあるだと思うが、都市の規模に比べて駅周辺の歓楽街の発達具合がエグい。
ここで一句。
岩国のフィリピンパブの看板の紅きを見れば夜ぞふけにける
観光しやすい
岩国というのは実に観光しやすい街だと思った。というのも、錦帯橋や岩国城など主要な観光地がすべて近接した位置にあるからだ。食事も正直、錦帯橋の前に何軒があるレストランから選ぶという感じだし、お土産も実質的に古田松栄堂というお菓子屋さん一択なので、意思決定の手間が省ける。
これは錦帯橋。実は舗道が階段状になっている。
岩国城からの市街地。錦川のダイナミックな流れ、海に面して広がる米軍基地など見どころは多い。
岩国城の麓にある岩国徴古館。戦時中に旧藩主の吉川家がつくったらしい。いまは歴史博物館のようなものになっていた。戦時中の建築って言われたら分かるよね。
この建物のゴツゴツ感が私の幻想の岩国そのものだった。中の展示も、明治以降については全然触れておらず、前近代の藩主の功績とかがずらずら書いてあって、なんだかすごくドメスティックな感じの空間だと思いましたね。この感じもなんか予想通りだった。米軍基地の騒音についてはどうなんだ!?とか思わずにはいられない。
ちなみに岩国は昔の中心街と駅前の二つが栄えている、よくあるパターンの街なのだが、観光地が集まっているのは昔からの街の中心地のほう。岩国というのも本来はこのへんのエリアの名称だったらしい。駅前のほうは麻里布(まりふ)という可愛らしい名前の街で、いまでも町名表示には残っている。麻里布と岩国って、語感が対照的すぎておもしろい。
総評としては、半日以上時間があってのんびりしたいならこの街は結構いいんじゃないかと思いますね。以上。
当事者研究、ナイスな言葉
2021年11月12日金曜日。今日から見出しの付け方を変えてみる。
『責任の生成』がすごく自分の感じていることとか最近考えていることとシンクロする感じがする。この数ヶ月、どうすればいい感じの人生を送れるのか、ということをおそらく生まれてはじめて真剣に考えているのだが、このような作業は当事者研究とも呼べるのかもしれないとこの本を読んでいて思った。たしかにすごく精神的エネルギーを使うなという感じがあるので、「研究」という言葉はこの文脈ではしっくりくる。名前をつけてくれてありがとうという感じ。
2021年11月11日
カフェに1日2軒も入ってしまった。コーヒーハウスマキと寺町李青。前者はもともと行こうと思っていた。ウィンナ・コーヒーが非常に上品でよかった。後者は15日で営業終了するらしいということを知っていて、たまたま前を通ったので入ってみた。オミジャチャという飲み物を頼んだがこれもたいへん美味でした。
最近、人間関係(という言葉自体があまり好きではないのだが)において自分の意志でどうこうできる余地はあるっちゃあるけど限られているよな、みたいなことを考えていて、これってそういえば國分功一郎がいっていた中動態概念に近いんじゃないかと思い出した。
そこでルネに行ったところ、『中動態の世界』より熊谷晋一郎との共著『責任の生成』のほうが面白そうだったのでこちらを買った。少し読んだだけだがたいへん刺激を受けている。p. 89で熊谷が語っている、
多数派の人々が使っている日常言語というものが、語彙のレベルでも、文法のレベルでも、語用のレベルでも、一部のマイノリティにとっては自分の経験を解釈したり他人と共有したりするためのツールとして使い勝手の悪いものになっている
という問題意識には膝を打つ思いだった。そうなんですよ、日常生活でよく使われる概念の意味がよくわからない、というのが私が小さい頃からずっと抱えてきたもやもやだった。特に他人や他人が関わる事象を指す概念、すなわち友達、遊び、人間関係、恋愛、などが何を指し示しているのかよくわからず、人付き合いってこれでいいのか?という薄ら寒さが常につきまとっていた。あと前にも書いた気がするが「研究」も。
ただ、幸いなことに最近こういった概念との「付き合い方」のようなものがようやくわかってきたと思う。この本での論じ方は私のやり方とどれほど異なっているのだろうか!?
これと関係して、私は語彙の好き嫌いがかなり激しい人間だということに気づき始めている。好き嫌いというか、自らの情動にきちんと紐付けされている感覚のある言葉でないと使いたくないといったほうが正しい。あと場所の好き嫌いもかなりはっきりしている。好きなのは人気のない水辺、嫌いなのは人混み。
2021年11月10日
キリンジのDrive Me Crazyの「可愛い愛車が 生き血を欲しがる」という(おぞましい)歌詞の「可愛い愛車」がスティービー・ワンダーの「可愛いアイシャ」と掛かっているということにはじめて気づいた。堀込高樹の言語感覚が冴えてるのは確かだが、うまい!と言い切っていいのかよくわからない例である。
2021年11月8日
最近頻繁に思い出すことがある。10年くらい前の話だが、旅行に行くために乗合タクシーかなにかで夜の高速道路を羽田空港に向かっているとき、高速の外灯を受けて鈍く光る東京モノレールの線路が窓から見えた。普段はなんとも思わないはずの光景だが、このときの私はなぜかモノレールの線路から目が離せなくなってしまった。
この線路は夜は誰も使わない。夜のモノレールの線路というのはいわば何の目的も持たない存在なのだが、そういうものが空間に小さくない体積を占めてそこにあるということが奇妙であり衝撃的に感じられたのである。
いま思えばこの経験はハイデガーとかハーマンがいうところの「壊れた道具」の知覚に近かったのではないかと思う。モノがモノとして立ちあらわれるというか。あるいはそういった議論を超え出る何かを受け取っていたのかもしれない!?
あとこのときの経験は別方向にも展開させられると思っていて、というのは、よく考えてみればあまり何にも使われないような空間というのは都市のなかにはたくさんある(無駄にでかいお寺とか、二条城前の広場とか)。一方で比較的狭い範囲のなかに人が密集していたりする(大学や街なかの町家群、あるいはスラム)。
しかも全然使われない空間というのは相対的に高い社会的地位と結びついていることが多く、密集地帯は社会的地位の低さと結びついていることが多いような気がする。面積という指標だけでみても、空間は明らかに社会的地位に応じて不平等に分配されている。さてこの着想からどういう問いが引き出せるだろうか?
2021年11月7日
国際会館でやっていた「アートコラボレーション」なるイベントに行ってきた。結局何の催しか最後までわからなかったのだが、たぶん現代アートの即売会みたいなものだったのだと思う。明らかに芸術関係者っぽい人たちで溢れかえっていた。
私はこの手の展示では、各箇所をまんべんなくみるというよりは直感的にいいなと思ったものの前で長く立ち止まるようにしている。
微妙な写真ですが |
これは神戸のギャラリーヤマキファインアートというギャラリーのブースで、今回出ていたブースのなかでは一番心惹かれた。左側は狗巻賢二、右側は小清水漸という人の作品。小清水氏は李禹煥らの「もの派」の流れに位置づけられる作家らしい。
ジャミロクワイと岡本太郎の近鉄バファローズを足して2で割ったような木彫像 |
このネズミの巨大ぬいぐるみはおもしろかった。下の画像は夜、誰もいない東京の街なかでこれを曳き回すというパフォーマンスの記録映像で、コロナ禍だからこそ撮れた感がありおもしろく見入ってしまった。
あと会場に鷲田清一っぽい見た目の人がいたのだが、鷲田清一っぽい人はけっこういるので別人かもしれない。
国際会館じたいもよいところだった。
66年開業。この時代の建築すっきゃわ〜 |
比叡山みえるのいいね |
国際会館は催し物の際の食事準備や皿洗いのために、近くの大学生を単発バイトで大量に雇っており、私も5年前くらいまではけっこう行っていたのだが、客として中に入るのは初めてだった。
微妙な写真ですが2 |
60-70年代の建物ってなんか「こういう感じ」ですよね。
2021年11月6日
河原町丸太町らへんのとんかつ屋の看板。子豚がかわいい。小津映画の小道具でよく出てくる「カロリー軒」の看板にも似ている。私、「カロリー軒」の看板が好きすぎて、かつてつくった(GarageBandのループを組み合わせただけだが)曲らしきものに「カロリー軒」と名付けたことがあります。曲の中身とは何の関係もないのですが。
2021年11月5日
そういえばこんなのあったよなと思って衝動的に「私を構成する9枚」的な画像をつくってしまった。ただこれは好きなアルバムを上から9枚並べたというより、嗜好が他の人に伝わりやすいように有名どころのみを選んだ。
知った時期でいうとはっぴいえんどとスティービー・ワンダーは幼少期、ジャミロクワイは中学、キリンジとタミー・テレル&マーヴィン・ゲイは高校、シャーデーとジ・インターネットは学部、ジョニ・ミッチェルとマッシヴ・アタックは最近、という感じでバランスがとれている。
自分語りおわり(毎日自分語りだが…)
2021年11月4日
小さい頃から「一所懸命」「いまここに集中する」「一日一日を楽しむ」的な言説がなんとなく苦手だったのだが、最近こういう考え方でやっていかざるを得ないという気がしてきている。というのは最初から完成を目指すと気が遠くなるからだ。博論は言わずもがな、修論でさえも、完成品としてのそれを想像すると工程の多さにめまいがしてしまう。大丈夫でしょうか
今日の音楽
この動画のコメントでMassive Attackを聴いているときにしか起こらない感情がある、というのがあったけど言い得て妙だな。Massive Attackは他の音楽が届かない心の領域に届く感じがする。全然ジャンルが違うがJoni Mitchellもそういうアーティストとして挙げられる、私にとっては
2021年11月3日
昼、以前から気になっていた聖護院の西隣の河道屋養老というそば屋でそばを食べた。某映画研究者にご同行願った。風情がありながら敷居の高さを感じさせない空間だった。予約していったからだと思うが、1000円程度のランチで個室に通してくれるのもすごい。次は昼から飲酒したいぜ
そのまま映画研究者のお宅にお邪魔したがこれが素敵としかいいようがない空間である。よく晴れた秋の日に本で溢れかえった部屋のなかで丸テーブルを囲みながらお茶を飲んでおしゃべりすること以上の快楽が人生に存在するのかは疑わしい
その後河原町に移動しマフラーなど購う。マフラーはいい感じの雑貨店で安売りされており、ユニクロのマフラーよりも安い値段で買えた。消費社会の小さな幸福
今日の音楽
以前少しだけ聴いて放置していたMassive Attackに突如ハマった。この陰鬱さが却って、心には落ち着きを、脳には明晰さをもたしてくれる感じがある
Vulfpeckが出していたジェマーソンのベースプレイのビジュアライゼーション動画。これで広告収入が入るというのは複雑な気分にもなるが見入ってしまう
ジェマーソンつながりで、彼のベストプレイとの呼び声も高いこの曲も貼っておきたい。久々に聴いたらイヤーワームになった
2021年11月2日
前夜、Amazonの古本で注文していた雨宮まみ『女子をこじらせて』が届いていたので読み始めたところ深更に及んでしまったためその後の行動がまるまる後ろ倒しになり、今日はあまり使いものにならなかった。
しかしいい本であることに間違いない。自分の本心から目を逸らしつづけて卑屈になる感じに満腔の共感を覚えた。そういう人がここまで本音を語れるようになるというのは希望以外の何ものでもない。だが当の本人がこの世にいないというのはつくづく残念だ。
そういえば京都に来て間もない頃にミシマ社で『愛と欲望の雑談』を読んだことがあるが(買わずに全部立ち読みしてしまった)内容はまったく覚えていない。あの頃はまだご存命だったのか。切ない。
ブログのカテゴリを減らしたいので「冗談」カテゴリの内容をここに転記しておく。最近思いつかない。早く寝ないとダメかもしれない。
- 銭湯 ばたい湯
- 名物 あんがじゅ饅
- なんでも酒や メイヤスー
- 老人福祉施設 サニー・デイサービス
- 理屈っぽい高校球児が通う学校 思弁和歌山
- 関西育ちの哲学者 サイデッガー
- 座右のメイ牛山
- シンリズムにハマったホミ・K・バーバ「文化の場所 文化の場所 文化の場所 抜け出せれない」
2021年11月1日
①またも私の関心をおもしろがってくれる人がけっこう身近なところにいることが判明した。ありがたい
②きょうも一応百万遍の古本市をパトロールしに行った。そしてきょうも知っている人に会った。『黒人リズム感の秘密』と『日本の都市空間』という本を購入。前者は鳥居真道おすすめ本で見つけたときは感動した。
③おそらく1年半ぶりくらいに中央食堂で夕食を食べてみたが、スタッフも客もメニューもガラガラで戦時中の配給みたいになっていた
④私のhuman-object relationshipに対する関心はstructure-agency problemと関わってきそうだ。しかしElder-Vassが以下で述べるように
in the context of social ontology the material world is no more than a tool for intentional humans to use – or a constraint, perhaps, on what they can do
結局structure-agency problemの観点からすなおに考えると、モノは道具として人間の意図のもとに操作される存在か、それとも人間の行為を制約する広い意味での社会構造か、つまり人間のエージェンシーか構造か、どちらかの側に回収されてしまうように感じられる。この二分法からモノを救い出す方法はないのか。それを考えることを出発点にしてみたらいいのかもしれない。
⑤今日の音楽
エロル・ガーナーの音の繊細さ好き
たまたまみつけた。はっぴいえんど界隈育ちにはこのボーカルは吉田美奈子にしか聴こえないよ。上ではうまく埋め込めなかったのだが、この曲を別に上げているmodernsoulclassicsというチャンネルがかなり興味深い。やはり後ノリでベースがぶりぶりしてる音楽は最高だ。
しかし毎日ブログ書きすぎでは?