2021年12月31日金曜日。
新宿まで散歩。
普段と別の場所にいるという感覚はない。
5年前にエチオピアに行ったときも異世界という感じはあまりしなかった。食事も言葉も違ったがそういうのは印象に残っていない。
ただ、どこかの都市で建設現場を通りかかったときのことだけは覚えている。5階建てくらいのビルをつくっていたのだが、足場が木で組まれていたのである。しかも製材されていない、節がそのまま残っている、曲がった木で。これだけでだいぶ違和感があった。日本で同じような風景に出会うことはまずないといっていいだろう。この木はどこから来たのか。
さらに建設労働者がみなラフなTシャツを来ているのにも面食らった。日本ではニッカポッカを着ていることが期待される。この人達はどこから来て、どのように集められているのだろうという疑問も生じた。日本ではおそらく施工主-工務店-鳶業者(日雇い労働者)間のコーディネーションが暗黙裡に想定されるが、エチオピアにおける労働のコーディネーションがどうなっているのか見当もつかなかった。
建設現場の足場や労働者をみたとき、多くの場合どのようなプロセスでその場所に存在するにいたったのかという経緯を暗黙裡に把握することができる。それが可能な限りでは違和感はない。未知の世界に入ったという感じがするのはそのような暗黙裡の前提が崩壊した瞬間である。そこではふだん「地」としてあまり意識されていない事柄(建設労働者のコーディネーションなど)が「図」にならざるをえない。
京都から東京に移動した程度ではそこまでのことはなかなか起きない。
2021年12月30日木曜日。
江戸なう。
しかし移動がたいへんだった。名古屋までは東海道線を使い、名古屋から高速バスに乗ったのだが、東名高速で事故が頻発したためにバスが渋滞にはまり、当初の予定より2時間弱も余計にかかった。
寝不足気味であまり頭が働いていなかったが、車内で伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を読んだ。発売当初立ち読みで半分くらい読んだ記憶がある。ただ、いま読むと著者の問題意識もわかりみが深い。
これを読んだらいよいよ頭がボーッとしはじめて、あまり深く集中することはできなさそうだった。なんかできそうなことをと思って、自分がいま通過している東名高速道路のwikipediaを開いてみたらこれが結構面白かった。とくに「歴史」の項がおすすめ。この道路一本が他のアクターにどれだけの影響を及ぼしたか考えるだけでもおそろしい。
バスの終着は東京駅だったが、どちらでも帰路は大して変わらないので一つ前の霞ヶ関で下車してみたところ、農林水産省の前で降ろされた。年の瀬の官庁街は閑散としていて人っ子一人いなかった。
かつて住んでいた家に到着し、夕食をご馳走になった。到着してまだ数時間だけど、早速、物の配置や人々の相互行為のパターンなどに、いまの大規模シェアハウス生活との差異を感じ取ることができる。たぶんその違いは、第一には同居人集団が比較的固定的か、入れ替わりがあるか、というところの違いに起因しているのかなと思う。
頭が働いていないといいながら、バスでの疲労が度を越したのが頭がなかなかクールダウンしてくれない。いま、日付はすでに31日になっている。
江戸の夜は冬でも比較的あったかいのでいいわ〜。
2021年12月29日水曜日。あんまり寒くない。
年越しそばと称して京都駅八条口の中華料理屋ハマムラのからしそばを半年ぶりに食べに行った。うめかった。
そのあともっと南に行って、京都みなみ会館で映画を観た。80年代を代表するアーティストであるトーキング・ヘッズのライブ映画「ストップ・メイキング・センス」である。
素晴らしかった。
90分間、時が経つのを忘れた。
現在も精力的に活動しているボーカルのデヴィッド・バーンのステージ上での所作の気色悪さが第一の見どころだろう。面白いおじさんだから興味があったら調べてみてほしい。
ちなみにベースを弾いているティナ・ウェイマスとドラムのクリス・フランツは実際のパートナー同士である。この二人はトーキング・ヘッズ在籍時から別のバンドをつくる。それがトム・トム・クラブである。この曲が有名だ。
今回、一番感動したのは、この曲のベースの音がかなり大きめに出ていて、めちゃくちゃダンサブルになっていたことである。気がつくと身体が揺れていた。この曲のベースリフを聴いていると陶酔感がしずかに高まっていく。
ていうかYouTubeにあんじゃん…。
イヤホン推奨。
2021年12月28日火曜日。案外寒くない。
今日の日記は七五調で、書いてみましたお粗末さまで。
BGMもどうぞ。
このたびは晦日に決まった江戸参り、行けそうなうちに行くべしと、背中を押した都人。同じこと、考える人の多ければ、感染拡大避けられぬ。コロコロコロナのコロコロナ。
箱根の関、一番最後に超えてから、幾年月か経ちにける。東下りの暁にゃ、太平洋にたたずんで、日の暮れるまま任せたい。
海の見えない都では、物足りなさなむ募りける。難波の海も趣は、なきにあらずと思えども、太平洋の茫漠さ、これこそをかしき風情なれ。
数年前に和歌山の、南の端の新宮の、古いお城の高台で、太平洋を眺むれば、胸が詰まりて立ちすくめり。太平洋への愛着の、意外なほどに深きこと、我がことながら思い知る。
家の窓から外海が、見えたら絶対気持ちいい。残念ながらこの願い、京都にいてはかなわない。
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堀川中立売ちかく、「金谷正廣」なる菓子舗、今日も元気に営めり。この店名物「真盛豆」、江戸への土産にチョイスせり。
と物知り顔に書いたけど、食べたことはありません。
この菓子、形が面白い。緑色した球体なのだ、たとえてみればほぼまりも。
まりものようなお菓子って、いったいどんな味かしら?
近所に和菓子屋いと多し、たとえば水田玉雲堂、「からいた」一度は食べてみたい。あるいは西陣塩芳軒、Googleレビューめちゃ高い。京都の和菓子は沼なのだ。
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2021年12月27日月曜日。さむい
伊藤亜紗『手の倫理』という本の最初のほうでアラン・バディウの倫理論についてこのように語られていてわかりみが深い。
バディウは言います。倫理に「一般」などというものはない、と。なぜなら状況が個別的であるのに加えて、判断をする人も、それぞれに異なる社会的、身体的、文化的、宗教的条件のなかに生きており、その個別の視点からしか、自分の行動を決められないからです。(中略)「一般」として指し示されているものは、あくまで実在しない「仮説」であることを、忘れてはなりません(伊藤 2020: 37-8)。
もっというと人間一般なるものを想定することに限界があると思う。人間とはなにか?と問うよりは、私とはなにか?と問うほうがしっくりくる。
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昨日労働法を研究している人から聞いたのだが、労働法制の一種にインターバル規制というものがあるらしい。これは、前の終業時刻と次の始業時刻の間を〇〇時間空けないといけない、というようなもので、裁量労働に適用されるらしい。ようは裁量労働だと労働時間を決めることが難しいのでむしろ休業時間にフォーカスして法律を作ろうというわけだ。
これを聞いて、自分にも使えると思った。私のいまの状況では、やろうと思えばいくらでも仕事できる。しかしずっと仕事してると疲れる。休まないと疲れる。最近疲れているのもあんまり休んでないからだろう。
なので休みの方にフォーカスするという発想はまさに今の私が必要としているもののように感じられる。休みを「図」としての仕事に対する「地」としてとらえる発想は、過労をまねき、ひいては顔色を悪くし、他人への関心を低下させる。
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2021年12月26日日曜日。晴れてるけど雪降ってる。
昼過ぎに家を出て地下鉄で京都市美術館へ向かった。
「モダン建築の京都」展に入った。めちゃくちゃ混んでいた。展覧会は最終日に行かないほうがいい。今回の教訓である。
今回の展示の白眉は、建物をただ紹介するだけでなく、図面とか関連資料を色々集めたところにあったのではないかと思う。ただ建築プロパーではないのでそこらへんはあまりそそられず、一通り見たあとは適当に館内をぶらついて遊んだ。
改装後一回も入ったことがなく、いずれ行かねばと思ってたのだが、さすがに写真の撮りがいのある空間ではある。
その後、前から気になっていた岡崎神社向かいのドイツパン屋ペルケオでパンを買って大学に向かった。
岡崎神社の脇から金戒光明寺を抜けて行くことにした。ようやく京都らしい底冷えの時期に入った。湿り気を帯びた冷気が袖や襟元から侵入して身体にまとわりつく。この感覚は一度慣れるとけっこう気持ちいい。正直なところ、冬は京都の一番いい時期だと思う。
などと考えていたら真如堂の前に出た。雲の切れ目からわずかに日差しの降る日曜の午後、古刹に人の影はなく、ただ私の靴音が響くのみ。ここは平安時代なのか?
研究室でパンを食べた。寒い地域ならではの、塩気の効いた保存食テイスト。たまに食べる分にはいいんじゃないでしょうか。
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森田敦郎『野生のエンジニアリング』を読んでいるが、これめちゃくちゃ面白い。感想はまた書きたい。モノと人の関係について考えるときにはまちがいなく必読。
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2021年12月25日土曜日。曇り。
私がいま住んでいるでかめのシェアハウスみたいなところには先人たちの蔵書が残されている。そのなかに「ゴルゴ13」が何冊かある。
ゴルゴ13は私のローティーン時代の象徴である。
中1か中2でゴルゴ13にめちゃくちゃはまってしまい、休日になると東京中のブックオフを駆けめぐってゴルゴを買い集め、適当な喫茶店に入ってひたすら読みふける、というような生活を送っていたのだ。
しかし2、3年経って突然興味がなくなり、おそらく計100巻は下らなかったであろうコレクションを二束三文で古本屋に売り飛ばしてしまった。
それ以来、ときどき本屋などで見かけても触手が伸びることはなかったのだが、昨日、急に懐かしくなって手にとってみた。気づいたら本棚にあったぶんすべてを読んでいた。午前2時になっていた。
劇画ならではの会話のテンポのよさ、セリフの印象の強さがゴルゴの特徴である。
フォークランド紛争のときにイギリス海軍の依頼でアルゼンチンのペロン元大統領を射殺する回で、ペロンの世話をしていた連れ子の娘がゴルゴの正体を見抜いていて、ペロンと一緒に殺されるときにつぶやいた「あなた…なのね…」とか、蝗害を自作自演しようとしていたアメリカの農業会社の計画を止めるべく、中国の農業筋からの依頼で農業試験場の施設を破壊する回で依頼者が言った「世界の農業を救えるのはあなたしかいないのだ!」とか、こういう決め台詞がバンバン入ってくる。
こういうゴルゴ特有の大げささにはまったんだと思う。
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今日は昨日の宣言通りスマホを置いて出かけることに成功した!
気持ちいい!
ちょっとした空き時間とかも本読めたし!
スマホの超強力なアフォーダンスを薄めていこう!
思うにスマホは手に取りやすすぎる。あのサイズでごろっとした感じがあってかつ持ち重りもしないようなモノには、あっしは触りたくなる。海辺で手頃な石を拾いたくなるように。あれはいかん。
ときどき、観光地のお土産で超巨大な鉛筆とか消しゴムを売ってるが、ああいうかんじで超巨大なスマホとかつくれんのか。
明日は京都市美術館の「モダン建築の京都」展に最終日滑り込みで行く予定なのだが……よりによって雪…!オーマイグッドネス!(ゴルゴ風)
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2021年12月24日金曜日。暖かい雨の日。
こういう人は案外多そうだが、私もスマホがあまり好きではない。
誰かと一緒ならともかく、一人で外出するときは、ラップトップさえ持っていればスマホを使わずに済む場面も多いから、スマホは家に置いたままにしてしまいたい。
ただ実際のところはスマホを置き去りにすることができない。「急に大事な電話がかかってきて取れなかったらどうしよう」という不安がストッパーになっているからだ。いまどき、LINEの電話ならともかく携帯番号に電話がかかってくることなんてそうそうないのに、なぜかそういう強迫観念がある。
そんなようなことを考えていたら昨日、「じゃあ電話がかかってきたらパソコンに通知が来る仕組みをつくればいいのでは?」とひらめいた。さすれば心置きなくスマホを置き去りにすることができよう。
アプリ連携アプリのIFTTTを調べてみたらできそうだったから、さっそく「スマホにかかってきて取れなかった電話の通知をメールで送る」アプレットを作ってみた。
とはいえそれ以降電話が来ていないので正常に作動しているかはわからん。
ただ、「電話が来ないか不安」という状況に手を打っただけでだいぶスマホのアフォーダンスが弱まった感がある。これはラトゥール的にいえば、IFTTTのアプレットという、「スマホを使わずにすむようにする」という意味づけを担わされたアクターが導入されたことで、私とスマホの関係が変化したからだろう。
2021年12月23日木曜日。寒い。
あまりに疲れていたので午後から散歩した。とりあえず京都御苑をぶらぶらしたら多少元気になった。夕日が落ちかけていた。それから京都駅まで出て、ヨドバシとイオンモールに寄って雑用を済ませた。
イオンモールから東のほうに向かった。大石橋を渡りきったあたりの光景がよかった。まずポンピドー・センターみたいな外観の工場(形容するものとされるものの関係が本来逆な気がするが)が見えてきて、そのうしろにJRと京阪の東福寺駅が背中合わせに並んでいる。工場萌えと鉄道趣味の欲張りセット。
そのまま東大路を北に行って、東海道線と交差するあたりで西に折れ、鴨川へ。寒くなってきたが、水辺を歩いていたら疲れはむしろ感じなくなった。四条で陸に上がってバスで帰った。
帰宅後は久々にジムに行って、浴槽につかることができた。ここまでやればだいぶ人心地はついてきた。明日はまあなんとかやれそうかなという気になっている。自分の飼いならし方が多少わかってきたのかもしれない。
最近よく聴いている。イタリアのバンドらしい。
2021年12月22日水曜日。さむい。
『ブルーノ・ラトゥールの取説』読書会、全行程無事終了。
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昨日、松田聖子を聴いてから急に70-80年代歌謡曲の波が来ている。
これは歌謡曲の範疇に入るかわからないが、尾崎亜美いいな。あまり聴いてなかったけど探求しがいがある。
この時期はチャカ・カーンなどをプロデュースしたデイヴィッド・フォスターが編曲を手掛けているらしい。アウトロで転調するのナイス。
尾崎亜美はもっと若い人とコラボとかしてほしい。
あとはやっぱり筒美京平。
全部は聴いてないが、このアルバム、ダンサブルな感じでよさそう。しかしこういう声の人今どき見かけないよな〜。
有名どころ行きましょう。
これまでちゃんと聴いたことなかったが、ベースエグくないか? タワー・オブ・パワーのロッコみたいになってる。調べたら寺川正興という人が弾いているらしい。ちなみに今の私の髪型はこのジャケ写の和田アキ子にかなり近い。
リズム隊いいよな〜、と思って調べたらドラム林立夫、ベース後藤次利だそうです。こういう曲の完成度を目の当たりにすると、結局、最近のVulfpeckだなんだといってもキャンディーズとかピンク・レディーと何が違うんだという気がしてくる。
ちなみに、YouTubeで「微笑がえし」と検索して候補を眺めていたところ、あるカバー動画の投稿者の名前と顔に見覚えがあった。見てみたら果たして、小学生のころに通っていた学童保育で一緒だった人だった(小学校は違った)。
ほかにも大量の昭和歌謡カバー動画を投稿しているようで、テンションが上がってしまった。学童保育では毎日、帰る前に全員で歌を歌うという、うたごえ運動の残滓のような風習があり、当時流行っていたスマップやオレンジレンジを歌わされていたような記憶がある。ともかく秒でチャンネル登録したのはいうまでもない。
2021年12月21日火曜日。
ああ、私の鯉は〜〜。紅色の〜、模様をつけて泳ぐわ〜〜(浪曲風)
どうも、田中角栄です。
聖子ちゃん大変だわなあ。
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なんか最近疲れてるかも。
自分への期待が高くなりすぎている感があるべ。
まあ自分自身のあり方の定常状態みたいなものは想定できないから、軌道修正が必要かもと思ったらその都度処置=生成変化していくしかない。
水辺に行きたい。琵琶湖とか。ああ〜
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スタイル・カウンシル最高〜。スタイル・カウンシルに影響を受けた人たちの曲ばっかり聴いてるから耳馴染みがいいのは当然だけど。
この曲好き。たぶんチューチュートレインの元ネタ。
タイトルのShe Was Only A Shopkeeper's Daughterというのはサッチャーのことらしい。サッチャー政権下で新自由主義への向き合い方みたいなものを模索する詞をたくさん残したこのバンドの姿勢は本当に素晴らしいと思うんだけど、サッチャーのdisり方それでいいのか!? 笑
正田美智子を粉屋の娘と呼ぶのと同じノリだと思うけど、権威に正統性がないっていってるだけで、権威主義じたいを否定してない感じがちょっと引っかかる。
しかし80年代のイギリスの音楽シーンはすぎょい。スタイル・カウンシル、マッシヴ・アタック、エヴリシング・バット・ザ・ガール、ザ・スミスはすべて1982年に結成されたらしい。フォークランド紛争の年。角栄は第1次中曽根内閣のフィクサーとして君臨。聖子はデビュー3年目でおそらく人気絶頂期。
2021年12月20日月曜日。寒いけどそこまででもない。
いや〜。
論文ってどう書くんだっけ?
自分にとって自明な前提からはじめたい。
まず自明なのは、いきなり自分のやっていることを否定するようだが、論文をどう書くかだけを考えていてもしょうがないということだ。最終的には書いてみないと、「論文をどう書くか」という問いへの応答が完成しない。
もう一つ自明なのは、文章を書くことを、なにかを蓄積したり、創作したりするイメージでとらえると、書き始めるのが億劫になったり、書けていないときの苦しみが増すということだ。
「蓄積」や「創作」のオルタナティブとして私が直感的に思いついたのは「仮留め」という言葉である。諸物の関係性の仮留め。位置はあとから変わるかもしれないがとりあえずマスキングテープで留めておく。そんなイメージ。なにか特別な力はいらないヨ。
では、いざ書き始められたとして、その後のプロセスにおいてどんなイメージを持っておいたら楽になるだろう?
最近気づいたのは、私の場合、何がいいたいのかわからない段階でも、自分がいいたいことが「何でないか」はわかることが多いということだ。なんか違うんじゃないの?という言説は、じつは巷には少なくない。あるいは、どのような言説に対しても何らかのかたちで批判はできる、といってもいいかも。
また思想史的に連綿と批判されているモチーフも多い。私の関心に引き寄せていうと、心身二元論とか、主客分離とか。そういったものとの差異や対比によって自分の立ち位置が徐々に明るみに出ていくというイメージをもっている。
結局、実際の論文のなかでも批判対象との差異や対比を示す必要がある(それは根本的には、そのほうが読者が読みやすいからだと思う。単に「Bである」といわれるより「Aでない」という説明もあったほうが納得する)ので、違和感とか批判から始めるのは理にかなっていると思っている。
また、人の書いたものを読んでいるときにも、「何がいいたいのか」の前に「何を批判しているのか」に着目すると、「何がいいたいのか」も把握しやすくなる気がする。
そして最後に、これも明らかなことだが、実際に書きすすめるプロセスにおいては、上に挙げたようなイメージを再編成することをいとわないほうがいいだろう。上で書いたことは、いわば「どのように論文を書くか」という問いへの仮説であって、書いている最中の身体感覚と相反するようであれば、仮説のほうを疑い、問い直していくのが筋だろう。
なんかきょう調子悪いのか文章書くのに時間がかかったぜ
2021年12月19日日曜日。寒し
たいらか |
吾、スタイル・カウンシル大好き人間
各曲、バージョン違いが多いが、このベスト盤に収められているバージョンはどれもいい。
2021年12月18日土曜日。寒空に小雪がちらつく。
シナトラのNew York, New Yorkのサビが
It's up to 湯、入浴入浴。
と聴こえることに思い至り、バイト中一人で悦に入っていた。
私が将来開くかもしれない銭湯「ばたい湯」のBGMに採用します。
2021年12月17日金曜日。
「フェリックス・ガタリは『屁理っ屈・語り』」というジョークを思いついて一人で悦に入りながら吉田山を散歩。
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コラージュ「自転車」
ドナドナ |
2021年12月16日木曜日。
スマホを布団のなかに持ち込まないほうがいいとわかっているのにどうして繰り返してしまうのか、と考えていて、孔子の
義を見て為さざるは勇なきなり
という言葉を不意に思い出した。
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泣いてどうなるのか |
2021年12月15日水曜日。
夜、急に篠原資明という人の存在を思い出した。
彼は超絶短詩というギャグを執拗なまでに続けているが、超絶短詩はたしかに真似したくなるものをもっている。
たとえば「佐藤」は
さ 問う
などとなろう。
と書いてみてはじめて、自分の名前のなかに「問う」という言葉が入っていることに思い至り、祝福されたような気分になった。あるいは私の考えすぎは名を与えられた時点で規定されていたのだ、というべきか。
他の例
さと鵜
さと禹
さと兎
さと卯
さと烏
動物関連の名前が多い。割烹の名前っぽくもある。
割烹 さと鵜
小料理屋 さと禹
あるいは牛丼屋っぽくもある。
さと卯の牛丼!
2021年12月14日火曜日。いと寒し。
夕方、柳月堂に立ち寄りしがチョコブレッド売れきれており。いとかなしめり。
『ラトゥールの取説』読書会第3回、楽しからずや。ANTはやんごとなきものなり。まことに人の一生はアクターネットワークの組替えならずや。
吾思ふに、ラトゥール、ドゥルーズ、オギュスタン・ベルクらに通底せしもの、ベルクソンに端を発さざるや。それこそ主客分離への抵抗なれ。
2021年12月13日月曜日。きのうから一転、寒くなる。
きのう書いたメディアとANTの関係については、『ブルーノ・ラトゥールの取説』を読み進めていくなかで、ラトゥール自身が2012年のAn Inquiry into Modes of Existenceで議論しているということがわかった。
ANTは非還元、非原則というけど、現実には複数のアクターをまとめて認識しているはず(組織とか場所)で、ANTではそれが説明できないのでは?と思ってたのだが、An Inquiry into Modes of Existenceはまさにその点に対するフォローを論旨とする本っぽい。たぶんこの論点は掘りがいがある。
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ANTとは別の文脈で、ヤバそうな論文に遭遇してしまった。
題名からしてかなりヤバそうな雰囲気を漂わせている。
この著者の単著The Social Life of Nothing(このタイトルは明らかにアパデュライのThe Social Life of Thingsを意識している)もできれば落手したいのだが、ciniiで調べたら日本の研究機関の図書館には一冊も入ってないっぽい。
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2021年12月12日日曜日。かなり暖かかった。
神戸映画資料館でフレデリック・ワイズマン「競馬場」と「モデル」を観る。
この20日で3本ワイズマンを観るアタシ。
昼前に着き、ベトナム料理屋でランチ。映画資料館の近くはベトナム系の人が多く、ベトナム料理屋が多い。最寄りの新長田駅の駅前でもベトナム語を操る若者がいっぱいいた。
映画自体は期待を裏切らずおもしろかった。いまわたしの頭の中はアクターネットワーク理論でいっぱいになっているわけですが、ワイズマンの撮り方はかなりANT的というか、モノをして語らしめる、という感じのヴァイブスを感じる。意志をもった人間同士の相互作用によるストーリー・テリングを志向しているわけではないのだと思う。私がワイズマンに惹かれるのは多分そこ。
「競馬場」を観ていて私は、馬という非人間アクターこそが競馬界を成り立たしめているアクターネットワークの「必須の通過点」obligatory passage point(長いので以下では「結節点」と表記)であることに思い至った。
ただ「モデル」で描かれているモデル業界の場合は、結節点がどこなのか、ちょっとわかりにくいと思った。普通に考えればモデルなんだろうけど、私は出来上がった写真、画像、映像などのイメージこそが結節点なのではないかと思った。
というのモデルを結節点に据えた場合、アクターとしてのイメージが「モデルが写っているもの」にしかならないからだ。しかしイメージはそもそも何かを写しているからイメージなのであって、これは何も指示していないのと同じである。逆にイメージを結節点と捉えた場合、モデルに対して「イメージの出来栄えをよくするためのもの」という意味付けが可能になり、収まりが良くなる。
ところで、モデル業界はイメージを売っている。写真とか映像のなかで「二次的に」人とモノ(モデル業界の場合は商品)の関係を再構築しているわけだ。演劇とかもそうだろう。テーマパークとかもそうかもしれない。
こういうのをメディアと総称するとすると、ANTとメディアの関係は一見複雑そうだ。ANTは仲介項 intermediationと媒介項 mediation という概念装置を持っているわけだがこれとメディア media / medium の関係はどうなっているのか? 「メディア」に関わる人々の実践はANTで解釈できるのか?
2021年12月11日土曜日。晴れ。
『ブルーノ・ラトゥールの取説』読書会第2回。
人間と非人間を対称的に扱うとは、両者の本質とされてきた「志向性」や「法則性」を、アクターネットワークから派生する二次的要素として扱うということである(p. 146)
しびれた。私はこのブログでも日頃、人間は内面に何かを所有している、という発想への違和感を唱えてきたが、ANTはこの発想に寄り添ってくれるだけでなく、「なぜ志向性を所有しているようにみえるのか」という説明までしてくれる。
國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』も読んでいるのだが、(ドゥルーズ=ガタリ以前の)ドゥルーズが『プルーストとシーニュ』や『差異と反復』で展開した思考論を解説している第3章は正直、ビンビンに来た。これが私にとってのシーニュでなくて何なのか!?
やっぱり人間の志向性みたいなものを疑問視するような思想にハマるようだ。
あとこれと似てるけど違う概念で主体性というのがある。私はこれにも疑問がある。ただ主体性という言葉が指している事態そのものに忌避感を感じているわけではない。そういう言葉で指されるような感覚を味わったこともある気がする。
問題だと思うのは主体性という言葉が主客分離を前提にしている点である。主体が客体になんらかの作用を及ぼすという発想を取り入れていることである。このような主客の区分を前提にせず、「主体性」のありかを指し示すようなロジックを提示できないだろうか?
それが中動態ということになるのか? 我らがブルデュー先生のハビトゥスは? でもあれは個人に帰属されているのか? 勉強が足りないから分からないヨ〜
2021年12月10日金曜日。晴れ。
きのうの話だが、Night Tempoが2月に京都メトロに来ることをいまさら知り、急いでチケットぴあで予約した。画面を更新したら「予定枚数終了」と出ていたのでたぶん最後の一枚だった。あぶねえ。楽しみ。
年末年始に江戸でやることを考えていたのだが、候補としては
- 末廣亭で講談を聴く
- 現代美術館の久保田成子展に行く
- 早稲田松竹でアレサ・フランクリンの伝記映画「アメイジング・グレイス」を観る
- 新文芸坐の小津特集でなにか観る
といったところか。
懐具合を鑑み、江戸までの安上がりな行き方について再度調べなおしたところ、名古屋-東京間の高速バスがJRの学割運賃よりもだいたい2000円ほど安くなることが判明した。その差額は、少なくともこの時期は、なんと京都-東京間(1000円)よりも大きい。直感に反するライフハックである。
ちなみに京都-名古屋間はバスでもJRでもほぼ変わらない。ミソは名古屋-東京間でバスを使うということなのだ。味噌は三河だけど。
2021年12月9日木曜日。晴れていた。
死の恐怖から逃れるためにとにかく何らかのかたちで名前を残したいという意見をしばしば耳にする。しかし本当に、名前を残すことが死の恐怖から逃れる手段になるのか?
一切は消滅に向かっているというのに。自分の作ったものは自分よりは長生きするかもしれないが、しかしいずれ消え去るだろう。
また、死してなお自分の名前を残すためにものを作る、というためには、作ったもののアーカイブが自分の死後も継続している、という確信が必要だが、それも怪しい。特に日本では。それに、国宝だってなんだって結局なくなるに決まっているのだ。
つまり私が「死してなお自分の名前を残すためにものを作る」という言明に対して違和感を抱くのは、この言明の背後に「一切は消滅に向かっている」という認識が読み取れないからだ。
私自身も、他者も、あるいは建物も机もパソコンも国民国家もいつかは消え去ってしまう。しかし少なくとも一時的にはそれらはこの世界に固着しているわけで、その変化の遅さが人間の寿命を超えるために世界が静態的なものに見えてしまうということなのだろう。
久保明教によればアクターネットワーク理論でも同じような発想がみられる。「各アクターの行為を通じてネットワークが相対的に安定し、一定の持続性を持つようになると、アクターネットワークは暫定的ではあれ確固たる世界の有様を生み出す」(久保 2019: 64-65)。また生態心理学でも(「時間と空間」でなく)「持続と変化」を存在の一般的性質と考える(染谷 2017: 27)。
変化のなかで一時的に静態的とみなせる状態が出現するのだと思う。
久保明教,2019,『ブルーノ・ラトゥールの取説――アクターネットワーク論から存在様態探求へ』月曜社.
染谷昌義,2017,『知覚経験の生態学』勁草書房.
2021年12月8日水曜日。曇りのち晴れ。
紀要の校正で精根尽き果てた。そして刊行が間に合うのか無性に不安になってきた。
夜にスーパーに行ってたらこを買って米を1.5合くらいかき込んだらだいぶ落ち着いてきた。塩分にまみれたつぶつぶの快感が舌に行き渡り、身体に染み渡る。
最初は酒やカップ麺のコーナーに引き寄せられてしまったのだが、そういうものを身体に入れてもストレスを増大させるだけで、自分自身のケアができていない感があったので思い直した。偉い。
今日の音楽
この間奈良で友人にレコード屋に連れて行ってもらったのだが閉まっていた。しかしシャッターにこのバンドのポスターが貼ってあった。Lampと組んでいるから存在は知っていたけどあまり聞いたことがなかった。
この曲はほぼシュガー・ベイブだな。サビで「ダウンタウンへ繰り出そう〜」と歌いたくなる。
2021年12月7日火曜日。雨のち曇り。
自分が突き詰めて考えることのできる事柄は限られている。そういうことについては、本で他人の見解を知る前に、ある程度自分の考えを書いておいたほうがいい。でないと本の内容に引きずられて、本と対話できなくなってしまう。
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最近Twitterが生理的に無理になっている。
よく生きるということは、自分の納得のいく言葉を選び取り、そういう言葉で意識を方向づけることにほかならない。しかし言語使用は人から人に伝染するところがあり、一度見た言葉や語用は記憶に残ってしまう。それが自分の感覚に合わなくてもだ。
だから他者のいうことには慎重であったほうがいい。この人の言語感覚を自分のなかに取り入れてもいい、と思えない限り、わざわざ言葉を求めようとする必要はないだろう。それでも共在はできるし。しかるにTwitterは、自分にとって必要のない言葉であふれている。だからそういう場所に足を踏み入れることはない。
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農業経済学の研究者と久保明教『ブルーノ・ラトゥールの取説』の読書会をした。還元主義に抗うラトゥールの思考はほんとうに刺激的だ。そのことが参加者の間で十分に理解され、共有されていたので、読書会はきわめて濃密な時間となった。日本の社会学界隈で評判が必ずしもよくないのはなぜなのか。アクターネットワーク論的世界観は私の肌にはとても合うのだが…。
その後共通の知人を交えて晩餐。口当たりがいいので杏露酒をバカスカ飲んでいたらめちゃくちゃ酔い、若干醜態を晒した。美味しいお酒こそ注意せねばならない。そして自分が下戸であるという認識がゆるぎないものになった。
2021年12月6日月曜日。曇っている。
『感情の猿=人』を読み終えた。あとがきで涙が出てきた。菅原氏にとって本を書くことは人生の苦闘を昇華させることだったのだ。
きょうも柳月堂のチョコブレッド買ってしまった。悪魔的なうまさ。
少し前に「交換から交感へ、交感から交歓へ」というフレーズを思いついて頭から離れない。他者と通交することを、情報とか感情のようなものの等価交換としてイメージするのは無理筋である。それはこの考え方の前提となっている、人間がなにかをその「内側」に所有しているという発想そのものが問題含みだからだ。
私の実感では、他者との通交は交換ではなく交感とよべる。何を話そうと考える前に互いに互いのアフォーダンスや、彼我を包み込む環境のアフォーダンスを拾い上げていくこと、そのような半無意識的なプロセスが立ち上がることが他者との納得のいくコミュニケーション=交歓のための条件ではないのか。
意識的に行うことがあるとすれば、そのようなプロセスが開始できるような準備を整えておくことだろう。アフォーダンスを感じ取るためには感性が十全に働いていることが必要だが、しかし感性はすぐに曇る。ちょっとした悩みごととかでも、対処するのが遅れるとだんだん不機嫌になってきて、あらゆることを悲観的に解釈するようになってしまう。そして意識がどんどん内旋していく。このような状況ではアフォーダンスの感受などのぞむべくもない。
感性の曇りをとり続けるためには悩みとか不安の正体を把握しようとすることだ。あるいはそれでも動いている感性のあり方を書き留めることだ。身体の知覚を頼りに、いまの自分を取り巻く状況を、正確に記述するのだ。
書くことによって感性の曇りを払いのける。豪雪地帯の人々が毎日雪かきするように(村上春樹の「文化的雪かき」を連想する)、大相撲の呼び出しが取り組みのあとごとに土俵を掃くように。それは終わりのないシジフォス的労働だが、雪かきにも没頭できるように、それ自体がある種の快感を伴う作業であることもまた間違いない。
すなわち私は書くことを「生産」のメタファーでは捉えない。手を動かすことによって、その動かした手によって、感性の曇りを磨き、再び自分を元気にして、他者との通交可能性を確保していく作業が書くということなのだ。
また私にとっては書くという身体動作それ自体が重要なのであって何を書くかはさほど問題ではない。結果的に書いたものが蓄積され、ある程度のまとまりができてきたら嬉しいが、それはあくまで、結果的に何かが生産されたことになればいいというだけで、主観的にはやはり絶えざる雪かきなのだ。
2021年12月5日日曜日。寒い。もう防寒フル装備。
柳月堂のチョコブレッド180円、美味いと見つけたり。
菅原和孝『感情の猿=人』をずっと読んでいた。いくつか印象に残った箇所を引用したい。
(前略)重大なのは、社会をまず二者関係に還元したうえで分析することが正しいとする思い込みである。 p. 85
ベルベットモンキーの順位争いに関する議論への批判。最近私は「世の中に二者だけで完結する関係などというものは存在しない」という見解に至りつつあるので、援軍を得たような気持ちになった。たとえ二人の人間の間にある程度持続的な関係が築かれていたとしても、その関係に直接間接に関わりを持つ第三者の存在や言動によって、お互いの印象や関わり方が変化し、その結果二人の関係が変わるということは十分にありえる。というかそれが普通だ。
さらに、アクターネットワーク論的にいえば、その第三者というのは複数いるかもしれないし、モノとか建造環境だったりするかもしれない。また空間の固有性を捨象して人間同士の関係だけから社会が成り立っていると考えることも、ワタシ的には完全にNG。
他者の顕著な振る舞いがその場の文脈のなかでどんな「関連性」をおびているのかを見つけようとする「受け手」のがわの積極的な努力こそが、コミュニケーションの出発点なのだ。 p. 87
ある種の顔面動作は、廣松渉のいうようにそれを見る者に「感情」を直截に感受させる。 p. 96
最近、アフォーダンス論を勉強しはじめているのだが、人間同士の相互行為にアフォーダンスがどう関わってくるのか、という点がおそらく社会科学系の議論にアフォーダンス概念を取り込んでいくためには要になってくると思われる。
おそらく、他者のアフォーダンスとでも呼ぶべきものが自己との間に成立していて、それを感受することが相互行為の契機なのだ、と私は漠然と考えている。上の最初の引用はベルベットモンキーが発する警告の鳴き声(警声)についての研究の批判的検討から出てきた言葉なのだが、やはりアフォーダンス論的発想と非常に相性がいいように思われる。
後者の引用でいう表情とかその動きとその反応というのが他者のアフォーダンスのひとつであると思う。
彼(順位争いに明け暮れるオスのチンパンジー) の「鞍替え」や「挑発」は、老獪な計算の結果などではなく、「不安」や「欲求不満」に駆られての試行錯誤ではなかったのか。 p. 160
前の問題の文脈とは離れるが、この一文が示唆するところはきわめて大きいように思われる。私はこの文章を読んで政治家とか実業家たちの姿が目に浮かんできた。しかしホモ・サピエンスの問題はここでいう不安や欲求不満を糊塗するボキャブラリーを豊富に持ちすぎていることではないか。合理性とか…
といって真っ先に思いつくのは(いちおう社会学所属なので)マックス・ヴェーバーの行為理論だが、生態心理学や人類学、現象学、地理学などの寄せ集めでなんとか思考を保っている私からすると、彼の社会学的行為理論はかなり切り詰められた哲学的前提のもとでしか成立しないのではないかという気がする。ヴェーバーおもんないよ。
ちなみに家に帰って鷲田清一『メルロ=ポンティ可逆性』をぱらぱらとみていたら、初っ端で「若い日に霊長類の行動研究にたずさわり、現在は文化人類学のほうに研究の重心を移しているおない歳の友人」がメルロ=ポンティについて語った言葉が引用されていた。これは明らかに菅原氏である。実は『猿=人』も菅原氏のメルロ=ポンティ作品との個人的な思い出からはじまるのだが、これがなかなか刺さるというか、分かりみが深く、勝手に親近感を覚えてしまった。
どうせこの時代の人たちは(紛争で授業がなかったから進々堂とかで)『知覚の現象学』とかは読んでたんだろうし、この二人が知り合いであることにもまったく驚かないのでセレンディピティというほどでもないが、こういう偶然の体験は良質の読書を保証する気がする。
猿人といえば、この曲で連呼されるangelという言葉が「猿人」にしか聞こえないのだがどうお感じになるだろうか。
2021年12月3日金曜日。寒い。
観世会館で市民狂言会なるものを観る。
何本か続けて観たので、型があることに気づいた。ボケとツッコミが必ずいる。ツッコミのほうはだいたい入口から一番遠い正面の客席側に立っていて、ボケの方は正方形の正面の舞台上でツッコミの対角線上に来る場所に位置している。
笑えることは笑えるのだが、笑いのセンス的に私にはあまり合わないかもしれない。歌舞伎とかもそうだが、そもそも〇〇家っていうあの閉鎖的な感じがちょっとアレだし…。やっぱ落語のほうが好きだな。
ただ能楽堂系は舞台と客席のレイアウトが面白いのでそれは楽しめた。観世会館もこじんまりとしていて綺麗で、質の高い空間だと思った。
こういう言葉があるらしい |
2021年12月2日木曜日。寒い。本を読むとはなにか。自分の頭に知識を投げ入れるイメージは違う。では自己変容の契機か。そこまで言い切れないことも多い。結局本によってまちまち。「合わない」本は関心が近かったとてぜんぜん流し読みでいい。そう思うと案外読める不思議。「合う」ものならたまたま開いた一行がインスピレーショナルになりうる。人づきあいと同じ。どんなにむずかしくて一般化されたようなことが書いてあっても、人のお喋りを聞いているようなものなので、適切な距離感で聞ければ盲信も憎悪も回避できるだろう。本は聞くもの?
2021年12月1日水曜日。奈良に行って友人と会って、私にしてはかなりのハイテンションで喋った。大切な時間。研究の文脈でも、他者とディスカッションが成立する契機を探すことこそが重要で、意識的に努力するとしたらその点だろうという気がしている。ディスカッサントのアフォーダンスによって成果物は勝手についてくるはず。