みぞおち

文章を書くことは、猫を愛することと並んで、最後の最後まで彼にとっての「ネイチャー」であり続けた。つまり何はともあれ、彼は自然に書かずにはいられない人格だったのだ。すべての人が生きていくためには肺と気管支を使って呼吸することを必要とするのと同じように、彼は生きていくために鉛筆とタイプライターを用いて文章を書くことを必要とした。そしていやしくも何をかを書くからには、たとえそれがどんなものであれ――個人的な所感であれ覚え書きであれ――うまく書かないわけにはいかなかった。うまく文章を書くことは、彼にとっての重要なモラルだった。彼はある手紙の中にこのように書き記している。

「私は思うのですが、生命を有している文章は、だいたいはみぞおちで書かれています。文章を書くことは疲労をもたらし、体力を消耗させるかもしれないという意味あいにおいて激しい労働ですが、意識の尽力という意味あいでは、とても労働とは言えません。作家を職業とする者にとって重要なのは、少なくとも一日に四時間くらいは、書くことのほかには何もしないという時間を設定することです。べつに書かなくてもいいのです。もし書く気が起きなかったら、むりに書こうとする必要はありません。窓から外をぼんやり眺めても、逆立ちをしても、床をごろごろのたうちまわってもかまいません。ただ何かを読むとか、手紙を書くとか、雑誌を開くとか、小切手にサインするといったような意図的なことをしてはなりません。書くか、全く何もしなかのどちらかです。(中略)この方法はうまくいきます。ルールはふたつだけ、とても単純です。(a)むりに書く必要はない。(b)ほかのことをしてはいけない。あとのことは勝手になんとでもなっていきます」

彼のいわんとすることは僕にもよく理解できる。職業的作家は日々常に、書くという行為と正面から向き合っていなくてはならない。たとえ実際には一字も書かなかったとしても、書くという行為にしっかりとみぞおちで結びついている必要があるのだ。

――村上春樹によるレイモンド・チャンドラー評(ハヤカワ・ミステリ文庫『ロング・グッドバイ』訳者あとがき pp. 627-628)