何もわからない!

研究の文脈で(そうでないことに関しても)、何が何だか分からない、わからなすぎて途方に暮れる、というようなことが少なくない。

正直、研究関心のマネージメントの仕方とか、相談の仕方、知り合いを無理なく増やす方法とか、何もわかっていないに等しい。所属研究室がきわめて凝集性の低い集団であることも関係しているかもしれないが、私の臆病さからいって、別の研究室にいても、あるいは大学の外にいても、人生のいずれかの段階で必ずぶち当たる壁なのだろうという気がする。

「やってみたいこと」はおぼろげにあるのだが、やり方自体がわからない。ただわからないままにしておいてもどうにもならない。このまま放っておいたら、おそらく「やってみたい」(と思いつく)こと自体が、ごくわずかな「できる」ことの範囲に収まってしまうようになるだろう。

やってみたいことといまできることの間の乖離にどう対処するか、という問いが問われているともいえる。これに対する対処はやはり、ごくわずかなできることに安住するのではなく、やってみたいこととできることの相関をイメージして、両者をともに充実させていく、というのが望ましいと思う。

ただ、M3にもなって今さらこんなこといってるんですか…みたいなふうに自分を責めなくなったのはだいぶ成長したといえる。いろいろな人がいろいろな課題を抱えているわけだし、わたしもその一ヴァリアントにすぎない。

壁にぶち当たっていると書いたが、これまでは壁の存在を感じつつもぶち当たるのが怖くて壁の前をさまよっていたような感じがする。乗り越えるのには時間がかかるだろうが壁にぶち当たれるようになっただけでかなり進歩している。

そもそも何をやるにもすごく時間がかかる子どもだったから、地金が出ているだけともいえる。なぜか私は要領がよいとみられることがあるが、多くのことに関して要領が悪い。

そういえば「要領が悪い人間」としてのアイデンティティは私の幼少時代を通底していた。できないことが多く、みんなすごいなあ、と思いながら日々を過ごしていた。とはいえ、得意なこともあったし(作文くらいだが)、水泳とか友達を作ることとか、苦手なことも最後にはなんとかなった。

いつからこのアイデンティティを失ってしまったのか。実際に要領がよくなったところも少しはあるかもしれない。だが要領がいい人間だと思われているのかもしれないということに気づき、それを内面化してしまった節もあるし、要領の悪さが出るようなことを避けるという心性ができてしまったのだろう。

しかし「要領が悪い人間」としてのアイデンティティをいま思い出し、いかに自分にぴったりくるものであるかを再確認した。「要領が悪い」ということは「できない」ということではないのだから要領の悪い人生を味わい尽くしたいと思う。

なんとなく書き出してみたらセルフ精神分析のような内容になってしまった…。