今回はあまり人に読ませるモードの投稿ではない。
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半年前くらいから、「研究」とは一体何なのか、私がやろうとしていることは一体何なのか、ということを問おうとしてきたが、それに対する暫定的な応答のようなものが脳内に漂いつつあるので、それらをメモとしてすくい上げてみた。時間のあるときに成文化したい。
これはいわゆる研究ハウツー(社会科学研究のやり方)みたいなものではなくて、私という個人の世界観とか人生観のなかで研究なるものがどのように位置づけられるのかという極めてパーソナルな問いへの応答なので、人に言っても「はあそうですか」というリアクションに終わるだろう。
これとは別に研究ハウツーも開拓していきたいが、そっちはあまり面白くない予感がある。だがラトゥールのいうところのインフラ言語で記述できたら面白いかもしれない。
そして以下に書いたことは当然、仮説であって、今後の「研究」の展開によって、「研究とはなにか」という問いに対する応答も変わってくるだろう。
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研究とはなにかという問い
吉見俊哉による研究論
ラトゥールによる研究論
人生のミニチュアとしての研究
ものごとの進め方の練習、地に足のついたものごとの進め方(凡夫主義、ボンピズム)の
ボンピズム
他者の力を借りること 現存する人びとと関わる ギヴ・アンド・テイク
先人の残したものでもって物語をつくる フリーライド 車輪の再発明=最悪な言葉
非人間の力を借りる
汎リサーチ論
研究 人生のミニチュア それ自体として総体
現在役に立つ(かも)
技能の蓄積過程としての研究
一方で人的資本、技能の蓄積という面も
「その後」役立つ可能性があるという点で人生の一部といえる。将来役に立つ(かも)
人生の一部でありながら総体でもある
研究という概念のとらえどころのなさ
しかし概念というだけではない、身体知でもある。「研究論」のようなものに没頭することの危険性、こういう作業もほどほどにせねば
だが身体知といい切ってしまっていいのかという気もする、自分の身体知そのものを相対化する視点も必要