私的外国語学習論(?)

外国語を学ぶということについて考えている。

そもそも外国語をどのように学ぶのか、外国語を話すというのはどのような意味のある体験なのか、そもそも言語とはなにか、コミュニケーションとはなにか。

なにか特定の言語を学ぶことを通じて、そういった噛みごたえのある問いに対する自分なりの応答をつくりあげることができれば、最高の充実感を味わうことができるに違いない。


しかし、いきなり話をひっくり返すようだが、コミュニケーションにおける言語の役割が(きわめて大きいにせよ)あくまで限定的であるという認識は、まずもっておきたい。

とくに対面コミュニケーションではボディ・ランゲージとかその場の状況みたいなものが多くを語ることになるし、それはどの言語でも変わらないはず。だいいち人間以外の動物はボディ・ランゲージで立派にやっているし。

おそらく、語学の前に必要なのは、言葉を介さなくてもある程度コミュニケーションがとれるという手応えである。その手応えがあれば「安心して間違える」ことができるので、結果的に語学も上達していく…のではないか。


そのうえで、外国語を学ぶといったときの外国語というのは一体何を指しているのか、ということを問うてみたい。

上の話と関係するが、そもそも言語はそれが使われている状況との関連によって、様々な存在様態をとる。だから、どのような状況でどのような言葉が話されているのか(どのような語彙が選択されるのか、文法的正しさはどの程度意識されるのか、など)、という、そのパターンにふれることを優先するのが筋のいいやり方ではないか。

さまざまあるスタイルを感じ取ること。ああ、こういうときはこういうノリ、こういうフィーリング、こういうヴァイブスの言葉なのね、ということを、身体知として蓄えていく。

もちろん語彙を増やしたりするのは大事なのだが、ランゲージ・オリテンティッドというよりもシチュエーション・オリエンティッドな語学の方向性もあり得るはずだ。状況と語用の連関に重きを置くのだ。

クリストファー・アレグザンダーのパタン・ランゲージのようなイメージ。いや、いま書いていてまさにそうだと感じた。外国語学習において学ぶべきはランゲージというよりもパタン・ランゲージなのではないか。状況に埋め込まれた言語。

さっきからさんざん状況という言葉を使ってきたが、これは西江雅之のコミュニケーション論(彼はコミュニケーションとはいわずに「伝え合い」と概念化しているが)でいうところの「伝え合いの七要素」をイメージして使っている。

詳細は『ことばだけでは伝わらない』という本の60ページに書いてあるが、彼の表現でいうと、ことば、身体の動き、当人の特徴、社会的背景、空間と時間、その場の環境、生理的な反応、ということになる。

彼の理論は、そもそもコミュニケーションとはなにか、という根本的な問いに対する練り上げられた応答だと思う。このコミュニケーション論が、「私的外国語学習論」(?)の出発点になりそう。